昭和44年11月30日 特別奉修委員に対する御理解 【入力者:岡村和一郎】
今朝の、あー御理解を頂いておりますと、おー、常平生の信心がいかに大事かということを、頂いたと思うんですね。えー、そのー、常平生信心をしておると、毎日お参りをしておるという意味じゃないですね、常平生の信心が大事だということです。
だからその常平生の信心というのは、あー、今朝あのー頂きますように、ここ2、3日私申しております、人の幸せと世のお役に立つためにと、いうようなことのために、えー、私どは常平生の信心がでけておらなければならんというわけですよね。
えー、昨日、それもなかなかです、実際実感として昨日、敬親会の(器?)じゃないばってん、(やっぱ?)自分の子供やら、孫達ばーっかのことになりますもんねっちゅう、話(かた?)でございましたが。
(これもやっぱ?)あの佐田が、あのー、子供の時から、あのー、信心を頂いておると、そこんとこ案外できるんだと。だから、あの子供やら孫やらに、この信心が、あのー、もう実に純粋にですね、例えばあの、ここでも若い青年会や松栄会の方達が、もうあちらの御結界だけは、あの、ま、あー、(?)お取次ぎ願われるでしょ。
それがそのー、もうほんとの信心のことだけですもんね、(おおよそ?)。ですから、いろいろ(親先生にお伺い?)したり、この(問題も問題にせにゃならん)っちゅうことがないのですから、実に、いわば美しいですね。
先日も私の孫が、( ?)のに、あのー、あー、バスで4台か5台かで、どっかあの、( ?)遠足があったんですね、(旅行からね?)。そん時にあのー、おー、「ノリコ」さん、明日はほなら、あのー旅行だから、お取次を頂いてお願いをしとかねばならんちいうて、一緒にお参りして、そして、その自分達の暮らしのことを真剣にお願してから、お取次をして、まあ帰りよりましたが、帰ってきてからその「ノリコ」さんが言うことに、あのー「今日、おかげ頂いて、私の乗っとるバスにはひとーりも怪我人もなかなければ、酔う人もなかった」っち。
ところが、あとの4台の人は、みーんなっその、(のみて?)があったっちいうわけですね。(ほで?)でも、やっぱお取次頂いとかなきゃできんというてですね、それを、その、まあ孫のいうことを聞かして頂いとって、ほーほんとにもう、この先生もう自分達の、こりゃ全体のことを願っておると、まあ、有り難い、尊いことだなと、こう思うたというてですね、あの話しておられましたが。
やはり、そのー自分の関係しておる、せめてそこのとこだけぐらいは願われなければね。やはり信心が必要じゃないでしょうかね。同時に、私はその、常平生の信心が大事だということを今、その、人の幸せと、また、世のお役に立つというようなこと、が、あー、ま、当分これが合楽にスローガンになるだろうと、こう思うんですけれども。
あー、そのー、結局、それがどういうようなことなのかと、いうとですね、今日の御理解煎じ詰めると、やっぱ佐田さん今日ご祈念中に頂かれたように、とにかく御理解88節って頂かれた時に、今日の御理解ば頂いちゃるですもんね。はあ今日は、あの、この御理解ということは今、八十八節の御理解を頂くんだなと、こう思うたっち。88が重なっておるところをご心眼に頂かれたそうです。ね。
だから、8と言やー、自分方の宅祭りも、8の日の日に、神ながらなおかげを頂いておるが、8という日は末広がりということに、今日はつながる御理解だなと思ったら、その通りの御理解であったと、こう言われる。
そして、またご神前で、あの、ご、あのー、ご心眼を頂いておられるとが、こうなんか籠のような中に、赤子の、んー、赤ん、真っ裸の赤ん坊が入っておるところを頂いた。
だから、私は本当にそのー私達の、おーお、信心の焦点というか、一つの本当のことがほんとに分かるということが、まず第一ですけれども。んー、今日の、おー、久富「クニヒコ」さんが頂いておられた、あー、その、おー、(今?)から食べるばーっかりで、その、おー、苦しいと。ほでそれは、どういうことであったかというと、(止血?)しておったからだと、こういうわけなんですが。
その私達が、そのーおかげを受けても受けてもですね、おかげを受けても受けてもいいですけれども、そのー(止血?)を患わなんならんとか、下痢をさせられなきゃならんとか、そのために、やはりこの体がもたないかなならんから、浣腸でもされるといったようなことではなくて済むおかげをね、限りなく頂かしてもらえることをです、その、おー、まあ分からしてもらわなきゃ。
ならそりゃんなら、さっさと食べて、さっさと出しさえすればいいですねって。さっさと儲かって、どんどん、なら、お供えすりゃいいですねって。そんなこっちゃないって。ね。
根本的なとこはどこかというと、久留米の初代が言っておられるように、私どもの信心生活というものは、もう真っ裸でこの世の中に出てきておるんだということ。だから、食べた物、食べたか、上から入ったつば、どんどん出すというようなことだけではなくてですね、それもそん中にはあります。けども、そげんさせしときゃよかっといったようなもんじゃなかて。
もう根本的なところへですたい。ね、わが身につけるも、わが物というものは、一切ないって。生まれてきて、なら肌襦袢一枚着せてもらうでも、その肌襦袢そのものが、神様の御物を身につけるんだという(人だっか?)。すべてが神様の御物だという頂き方を根本としなければならんということを、今日、佐田さんは頂いておられるわけですよね。ね。
ですからね、そこになってくる時にですね、私はその、自分の財産に窮々とするいったことがなくなると思うんですよ。そして何かもうちっとばかりでくっと、自分が儲けてたつば、こがしこ(御用に立てよる?)ちいったようなものがちらつくわけですね。
これじゃなるほど(止血?)を患うだろうと思いますよ。ね。もうほんとにそれこそ、肌襦袢一枚、とにかく裸でこの世に生を受けさせて頂いて、(こい?)に身につけさして頂くのもすべてが、神様のおかげによらなければ、神様の御物であるという、その根本的なところを、に、をですね、分からしてもらう信心生活。
そして、私はんなら、人のそろ、それで人の世のために、人の幸せのためにお役に立たせて頂こうというようなね、そのー家族があげて、そういう焦点が置けれるというようなおかげを頂かしてもらうということがね、もうほんとに、もうこれからの信心のここに極まったばいと、やはり一人がどーしても(思い込まにゃ?)いかんです、家族の中で。
っと、それがもう繰り返し出されてくるわけです、ね。そういう、私はあの、おかげを頂いていかなきゃならんなというふうに思うんです。
今日、この特別奉仕の(中で後の?)ご祈念をさして頂きよりましたらね、これはまあ皆さんが一つ判断して頂かにゃかいかんと思うんですけれども、この親と、こう親指と人差し指が膠(にかわ)でつけちゃるごたる感じですよ。(?)がひっついとるわけです。 ところが中に、稲、稲穂があー、あるとが、その抜けてから、もうほんとに何本かなかもんじゃけん、皆(これぬけしまいよるっちゃか?)。これいっぱい、中を開けれると。それで、こん膠ば外してから、一つずつ(こもらして?)いきよるっちゅう感じ(笑)。これが、特別奉仕委員の方達の信心の内容じゃなかろうかいうふうに思うんですよね。ねん。
ですから、どーでも一つこのへんのところをおくれた、これはもちろん、おーん、皆さんと私のことだろうと思うんですよね。親と、皆さんということでいいんだろうと思うんです。だからこの、ほんとに膠にひっついたぐらいにあるけれども、それをこう外していく、それ、それでは、(ここがこう鬱憤?)、あの、かえって、こう握ってあった(立派な?)やつが、こう抜けていくというね。
それで、えー、このへんのところを、ま、まあ、私もよく分かりませんけれども、何か分からして頂かなんならん気が致しますんですよね。(あと?)一つのお繰り合わせ頂いて、えー常平生の信心が大事、まめな時、ここに参って信心のけいこをしておけというのはね、ただ参っ、まめな、なーへ、平穏無事の時にささっと参っとくというだけじゃなくて、平穏無事の時にです、ほんとにもう、(あたらんみがかんで?)よかごと磨きをかけておけと。ね。
その焦点がどこにあるかというと、ほんとの信心生活にあるんだと。ね。また同時に、私どものその、その信心生活さして頂きながらのそん願いがです、ね、人の助かることのために、まあ人の幸せのことんために、そういうおかげを本気で願わなきゃならん。
昨日、その御理解を頂いて、まだ熊谷さんは頂かんなり、ここにお届けをなさったですけれど、そのー、あっ、夕べだったですか、(4時?)のご祈念に参って来て、(お礼を言うたのに?)、あのー、(※中から「朝です」の声)朝ですかね、やっぱ。それがその、ちょうど(小瀬川?)ぐらいな川があるのにですね、自分が橋をかけておるちゅう言うんです。
それも、熊谷さんが架けておられる、その橋のおかげで、遠回りせんで済む、(水を渡って?)川渡って行かんでんよか、もうほんとにおかげでっち言ってから、たくさんの人がその橋を、たった(小瀬川?)ぐらいな小さい川だけれどもです、やっぱ橋なしには行けんち。
またがって通れるぐらいな溝かか、ぐらいならね、まだいいけれど、やっぱり橋を要する人がたっくさん(家?)の中にあるということですよ。ん。だから、あのー熊谷さんがそういうやっぱりあのー御用を頂いておんなさる、または、神様がそういう御用のために一つ専念しろと言うておられるか、どっちかでしょうねというようなことも申したことでしたけれど、私どもがそういうね、橋を架けさして頂く、いうならば、人の幸せと世のお役に立つというと、そういうことじゃないかと、こう思うんですよね。どうぞ。